十社大神の鎮座地である富山県の旧小杉町・三ケ地域は、江戸時代から左官の町として知られています。
十社大神の近くに拠点を構えた小杉左官たちは、国内外で漆喰を用いた仕事を幅広く手掛け、活躍しました。
また、仕事の少ない冬場には、鏝絵の絵馬などを製作してその腕を磨き、優れた作品を地元の神社に奉納しました。
十社大神には、小杉左官を代表する竹内勘吉・竹内源造親子などの素晴らしい鏝絵作品があります。
特に、竹内源造は、15歳の時に東京の帝国ホテルの貴賓室の漆喰彫刻を立派にやり遂げるほど高い技術力を有していたと言われます。
源造が残した作品は、どれも迫力があり、かつ高い芸術性が認められます。もはや壁画の装飾のレベルを超え、漆喰を用いた立体造形の世界です。
また、鏝絵の絵馬額は、どれも吉兆(縁起が良いとされる様々なもの)をテーマにしていて、奉納した人々の祈りの現れでもあると考えられます。
美しく、面白く、かつ味わい深い、そんな鏝絵作品の数々をご覧ください。
絵馬「神功皇后」
(じんぐうこうごう)
竹内源造と同年代の左官職人たちが刊行した左官組合の記念誌に、この作品について「竹内源造作」と書かれており、名工・竹内源造が手掛けた作品とされている。
皇后の衣装が漆喰とは思えないほど柔らかな曲線で表現されているほか、作品を囲む額縁の部分も全て漆喰で作られており、極めて高い技術が見てとれる。
神功皇后は、14代天皇・仲哀天皇のお后様。
気長足姫命ともいわれ、十社大神の御祭神の一柱でもある。
この絵馬額は神功皇后が子を身ごもりながら海外遠征し、軍を率いる様子を描く。
このとき、身ごもっていた御子はのちの応神天皇。
神功皇后は、武芸の神としてあがめられているほか、過酷な状況下でも流産することなく無事に帰って安産をなしたことから、安産の神としても崇敬されている。
絵馬「武内宿禰」
(たけのうちのすくね)
「神功皇后」と2枚1組の作品とされ、こちらも名工・竹内源造の作品とみられる。
作品を囲む額縁部分は、まるで金属の透かし彫りのように見えるが、この部分も漆喰で、四隅の銅板のように見える部分も漆喰でつくられており、作り手の高い技術力と作品への強いこだわりが感じられる。
衣装や冠なども精巧に作られており、作り手がよく題材について調べて作品づくりをしたことがうかがえる。
武内宿禰は、大和朝廷の時代の大臣。抱いているのは神功皇后の子で、のちの応神天皇。
武内宿禰が長寿だったため健康長寿、大臣の地位に上ったため立身出世などの願いをこめ、よく絵馬や武者人形の題材に取り上げられる。
刻印によると、竹内勘吉と砂原清吉の合作。
中国の古い書物に書かれた逸話を描いた絵馬で、大舜の孝行ぶりに感動して像の大群が農作業を手伝ったという。
明治34(1901)年作で、竹内源造の父・勘吉の銘がある。
十社大神のシンボルである木造の白馬と黒馬を取り上げ、2頭が駆ける様子を躍動感たっぷりに表現している。縦1メートル、幅1・8メートルの大きな作品。
中国の十八史略に描かれている一場面を描いたもの。
小杉左官の数ある鏝絵の中でも、鏝さばきが見事で、とりわけタッチが美しい作品。
周の文王が落ちぶれた呂尚(のちに太公望と呼ばれる)と出会い、礼を尽くして軍師として迎える場面。
竹内源造が昭和15(1940)年に製作した橋で、西側の参道に架けられている。
国内外で数多くの作品を手掛け、名工と言われた竹内源造による最晩年の作品。
モルタル製で、精緻な仕事。伊勢神宮・内宮の五十鈴川にかかる宇治橋に似ている。
竹内源造の弟子・高木栄吉の作品とされる。
栄吉は、竹内源造とともに海を渡り、中国・大連の銀行の仕事を手掛けたと言われる。
じゅっしゃ おおかみ
十社大神
【鎮座地】
富山県 射水市 三ケ(高寺)1753
【宮司宅・社務所】
富山県 射水市 三ケ(高寺)870
電話 0766-55-0059
FAX 0766-55-5273